仙台領と御屋形様

仙台藩は無かった

【問】徳川時代に「藩(仙台藩)」という公称はなかった

 

徳川時代の「伊達藩」という呼び方は誤りで、 「仙台藩」というのが正しいそうですが、何故ですか。

 

【答】

正しいという意味では、どちらの呼び方も誤りです。徳川時代270年間を通じて「藩」という公称は存在しません。「藩」が存在しないのですから、「支藩」などという呼称は尚更甚しく無知な誤用であります。慶長20年〔1615年7月13日元和と改元〕7月7日に2代目将軍秀忠が発布した「武家諸法度」⑴〔ぶけしょはっと〕13条を見ても、大名領については「国々・国々大名・他国・自国・諸国・諸大名・国主・治国」などの用語を用い、藩とか藩主などの語句は全く出ていません。

幕府で個々の大名領の公式な名称としたものは「地名」+「領」であって、例えば仙台の場合は、「仙台領」というきまりでした。

それは、万治元年〔1658〕12月18日、4代将軍家綱が伊達 家第3代を継いだ綱宗⑵に与えた朱印状⑶に「一家中之輩仙台領仕置之儀可為如前々事、付町人百 姓等不窮困様ニ仕置可申付事〔下略〕」〔「雄山公治家記録」巻之上〕⑷のように示されています。

時代が下って、明治元年〔1668〕12月6日、戊辰戦争の責任を問われて領国を没収、改めて28万石を下賜された時の通達文書にも、「名取郡都而〔すべて〕六十一ヶ村、宮城郡都而七十八ケ村、黒川郡都而四十九ケ村、玉造郡都而三十一ヶ村、志田郡之内都而四十三ケ村、高二十八万石、右之通其方為領分〔りようぶんとして〕更に下賜侯間、来巳〔み」の年より物成⑸郷村⑹等請取可申侯事辰年十二月」とあるように、終末期に至るまで、「領」という公称が使われているのです。

それで領内でも、「御国・御国家・御分国・御国表・御家・御領地・御領分・御領内・御分領」等の用語を用いたことが、文書や記録類に表われています。したがって「藩主」⑺という名称も存在するはずがありません。

幕府では「諸大名・諸国大名・諸侯」などと総称し、その中で階級的な家格を定めて「国主⑻・城主⑼・領主⑽」当主を御屋形様⑾と呼んでいます。

 

以上で明らかなように「藩」という、大名領の領地とその支配体系(組織・構成員)を総称する正式称呼はありませんでした。したがって、家臣のことを「藩士」という称呼もなく「家中」とか「家来」とか「家臣」と呼んでいたのです。

「藩」という語は、中国の封建時代に王室の屏〔おおい。ふせぎ、まもり〕となる諸侯〔また諸侯国〕のことです。儒者の間の詩文の中で用いられ始め、一般には激動の幕末期に、この藩という用語が、ぼつぼつ現われてきます。

国をゆるがす非常事態の到来で、時代意識の急変したことにもよるが「藩」の語は多用されるようになっていきます。

勿論、まだ非公式な、私的な使用法でした。それが正式な名称となったのは、慶応4年〔1868、9月 8日明治と改元」閨4月27日発布の「政体書」に、旧幕領を府・県とし、その他の大名領を藩として併立させる「府県藩三治制」が規定されたことに基づきます。

このことは「官令沿革表」に『地方官ヲ分チ府藩県ノ三官ト為シ等級職制ヲ定ム』とあります。28万石を下賜された「仙台領」が、明治2年3月版籍奉還⑿を新政府に願い出て、6月1 7日に許可され、ここに始めて「仙台藩」という新国家の地方行政単位が新設されたのであります。

この「仙台藩」は、やがて明治4年7月14 日廃藩置県によって「仙台県」に引継がれるまでの一時的な正式公称たったのです。ところがこの「藩」という称呼は、近世大名領とその支配体系の総称として簡便ですので拡大慣用され、逆に徳川始期にまで遡って、当時の大名領を〇〇藩と通称して何人も怪します今日に至ったものです。

 

 

 

注(1) 2代将軍秀忠が、慶長20年諸侯に下した13ヶ条の制令、城地の修築・婚姻・動交代等を規定し、諸大名の武力を制限し、諸大名を監察し、幕府体制の維持強化をはかることを目的とした。その後、将軍の代替りの際、それぞれ多少の修補を施して下した。

注(2) 伊達家第3代の家督を継いだ。幼名巳之助,藤次郎と称した。第2代忠宗の五男、母親は側室の貝姫。その治世は万治元年(1658]から同3年までの短期間に過ぎなかった。不行跡の理由で幕府から隠居を命ぜられ、江戸品川の屋敷で余生を送った。芸術的才能があり、絵画を狩野探幽に学び、また本郷国包について刀工を習い、すぐれた作品を残している。その側室が4代綱村を生んだ三沢初子である。正徳元年(1711年6月4日没、72歳

見性院敷地山全域大居士と法意し、瑞属寺に葬り、南を善応殿という。

注(3) 将軍の朱印を押した有確認状。徳川時代に公文書に朱肉印を押すのは将軍に限り、諸大名は黒印(黒肉印)を押すことになっていた。「伊達家史談」第13巻(伊達邦京)によれば、伊達家では第4代綱村から朱印を用いたとある。

注(4) 管理する。統治する。

注(5) ものなり。年貢(ねんぐり収入。

注(6) どうそん。村々の土地、人民を指す。

注(7) 仙台領の当主自身は、藩内では「伊達家第〇世藤原朝臣○○」と刻んだ公印を使っており、対外的には松平陸奥守の官名等を用いた。

注(8) 国主大名・国持大名・図持・国大名・国取大名ともいう。

江戸時代の大名の格の第1級。室町から江戸にかけて一国以上を有する大名を言った。

後には一種の家格となって一国を領有しない大名をも称することがあった。

江戸時代、前田(加賀)・松平(越前)・島津(薩摩)毛利(長門・肥前)・伊達(陸奥仙台)・細川(肥後)・池田(因幡).鍋島(肥前佐賀)・黒田(筑前)・浅野(安芸)・池田(備前)・佐竹(出羽秋田) 上杉(出羽米沢)・山内(土佐)・松平(出雲)・藤堂(伊勢津)・有馬(筑後久留米)・蜂須賀(阿波)を国持十八家(又は十八国司)。宋(対馬)・南部(盛岡))を加えて国持二十家といった。門地または席次が国に次ぐ大名を准国主・准国持・国持並といい、伊達(宇和島)・立花(現後柳川)などがあった。

注(9)江戸時代に、国主並びに産国主に次ぐ城郭を持った大名家。

注(10)江戸時代無城のもので、陣屋を設けて領内を治めた小大名。国主・城主より地位が低くかった。

注(11) 室町・江戸時代、特に許された大名だけが称することができた栄誉ある称号、江戸時代に許されたのは、三家・島津(薩摩)。伊達(仙台)・細川(熊本)・毛利(長門)・佐竹

(秋田)・上杉(米沢)・宗(対馬)。なお、殿様というのは、陪臣の者がそれぞれの主人に対する敬称であるから区別しなければならない。

注(12)版籍とは、土地と人民のこと、全国の諸大名が、その領土人民を朝廷に上したことを版籍奉還という。

資料

宮城県史第2巻

東藩史稿(作並情売)

徳川実記

岩波講座日本歴史

 

 


領主・大名家の名前や呼び名

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「仙臺城・掛け造り」

 

領主・大名家の呼び名や名称はどう呼ばれたのか、書かれたのか?

【揮毫や署名】

松平陸奥守 

陸奥守藤原朝臣吉村獻納 

從四位上行左近衞權中将兼陸奥守藤原朝臣吉村

 

「伊達家史叢談」第1、2巻(伊達邦宗)「仙台風俗志」(鈴木省三)等によれば

主君とその家族に対して、次のような敬称を使っていました。

当主を屋形様⑾、

夫人を御前様、

当主の父を大屋形様、

当主の母を大御前様、

世子を御曹子様〔おんぞうしさま〕 

世子夫人を御新造様、

公子は・・・・・・様、

女公子を・・・・・姫様

 

 

【呼称や呼び名】【手紙の宛名】

天正十三年〔1 5 8 5〕 八月十日

伊達美作守殿 青蓮院尊朝親王 御花押

天正十四年〔既に1 5 8 7〕十二月ニ日

伊達左京大夫殿 (豊臣)秀次 天正十八年〔1 5 9 0〕一月九日

伊達左京公    (蒲生)忠三郎氏 郷天正十九年〔1 5 9 1〕卯月三日

羽柴伊達侍従殿  (應川)家康 (6)天正十九年〔1 5 9 1〕卯月廿七日

羽柴長井侍従殿  浅野長吉天正十九年〔1 5 9 1〕五月十日

羽柴陸奥侍従殿  (宇喜田)中納言秀家天正十九年〔1 5 9 1〕八月三日

羽柴侍従殿     浅野長吉文禄元年〔1 5 9 2〕

正月四日羽柴侍従殿 (蒲生)文禄二年〔1 5 9 3〕卯月晦日〔うつきみそか〕

大崎侍従殿    (徳川)家康

大崎少将殿    大坂五奉行連署 慶長五年〔1 6 0 0〕九月十一日

羽柴越前守殿   一通斎慶長十年〔既に1 6 0 6〕極月〔ごくげつ〕四日

羽柴越前様    中納言秀家慶長十五年〔1 6 1 0〕十月三日

松奥州様     青山播磨守忠成慶長十九年〔1 6 1 4〕十月十四日

松平陸奥守殿 酒井雅楽頭忠世等三人連署 慶長十九年〔1 6 1 4〕十一月廿八日

松陸奥守様   (上杉)中納言景勝元和四年い6 1 8〕六月十六日

仙台宰相殿    (徳川)秀忠寛永四年〔1 6 2 7〕正月十二日

仙台中納言殿   (徳川)秀忠