14 白虎隊の生存者が仙台にいた?
【答えの要約】
飯沼貞吉は慶応4年(1868年)8月22日、会津藩白虎隊士中2番隊37名の1員として戸の口原に出陣。翌23日、敵の圧倒的勢力を前に退却、飯盛山にて自刃するも救出され奇跡的に蘇生する。その後、逓信省などで勤め上げ仙台に居住。仙台市青葉区錦町には、飯沼貞(吉)雄が逓信省を退職後居住した地に「蘇生白虎隊士飯沼貞吉終焉の地」の碑(1991年)と貞雄の直系孫3人の建立になる説明坂(2013年)が設置されている。
飯沼貞吉は慶応4年(1868年)8月22日、会津藩白虎隊士中2番隊37名の1員として戸の口原に出陣する。翌23日、敵の圧倒的勢力を前に退却、飯盛山にて自刃するも救出され奇跡的に蘇生する。爾後工部省(後に逓信省)に職を求め、電信技術者として功績を残す。
白虎隊については多くを語らなかったというが、白虎隊悲劇の生き証人として事跡を後世に伝える。
嘉永7年3月25日(1854年4月22日)、会津藩士・飯沼時衛一正(家録450石)の次男として郭内に生まれる。白虎隊は数え16歳、17歳とされたが15歳の貞吉は嘉永6年生まれの16歳と偽って申請、受理されている。
父一正の妹千重子は会津藩家老西郷頼母に嫁ぎ、白虎隊士が飯盛山で自刃した慶応4年8月23日、頼母の登城後西軍が城下に押し寄せる中、頼母の母、義妹2人、5人の娘、親戚12人と共に一家21人が自邸で自刃したことで知られる。
母ふみは、家老西郷頼母と祖を同じくする西郷十郎衛門近登之(家録350石)の3女。山川三兄弟妹として有名な山川大蔵(浩)、山川健次郎、山川咲(捨松)は、母ふみの長姉えんが嫁いだ家老職山川兵衛尚江との間の子で、飯沼貞吉とは従兄妹にあたる。
救出され蘇生した飯沼貞吉は約1か月の間敵の手を逃れて塩川、喜多方で治療、その後猪苗代謹慎所に出頭する。謹慎後明治3年11月、徳川家静岡学問所に入学するが、謹慎中の約2年間、長州藩士楢崎頼三に連れられ山口県美祢市に滞在したとの説がある。明治4年11月静岡学問所は廃止され、旧幕臣藤沢次兼の書生となって上京(この時期「貞雄」と改名)、明治5年電信修技校(電信寮(工部省の電気通信教習所)の予備校)に入り、同年6月工部省電信寮技術等外見習下給として採用される。
以後各地を転任、功績を重ねて昇進し、明治30年(1897年)仙台郵便電信局建築課長、明治38年(1905年)札幌郵便局工務課長、明治43年(1910年)仙台逓信管理局工務部長を歴任して日本の電信電話網の整備・発展に尽力し、大正2年(1913年)60歳にて退官した。退官時高等官3等、同年正五位勲四等に叙せられる。
この間、日清戦争では明治27年6月25日大本営付歩兵大尉として朝鮮半島に出征、釜山・京城間の軍用電信線路架設に従事して困難の中これを成し遂げ、日本軍捷報の内地への速やかな伝送を可能せしめた。
また貞雄は、貴族院議員となっていた山川浩と連携して会津本郷焼の性能を向上させた電信線用碍子の開発を指導し、会津碍子として明治24年以降逓信省、陸軍省から数万個の受注に成功し、会津の産業発展に大きく貢献している。
退官後は引き続き仙台に居住し、盆栽、囲碁を趣味とし、和歌の道にいそしんだという。昭和6年(1931年)2月12日、感冒に肺炎を併発し仙台にて没した。享年78歳。墓所は仙台市北山輪王寺。
仙台市青葉区錦町には、飯沼貞雄が逓信省を退職後居住した地に「蘇生白虎隊士飯沼貞吉終焉の地」の碑(1991年)と貞雄の直系孫3人の建立になる説明坂(2013年)が設置されている。