20 小田原は小俵邑だった?
【答えの要約】
伊達家四代綱村の正室は幕府老中稲葉美濃守正則(相州小田原城主九万五千石)の娘で「千姫」と言う、四代将軍家綱の命により綱村と婚姻。
千姫」は高松の丘に登り仙台を一望しました時、眼下に広がる邑村は、幼少に見た故郷小田原の地に似ていることから、国分荘小俵邑の地名は「小田原」と称されるようになったとも言われます。千姫の没後、万寿寺殿として故郷に似る小田原の眼下に見える高松の丘の万寿寺に葬られました。
伊達家四代綱村の正室は幕府老中稲葉美濃守正則(相州小田原城主九万五千石)の娘で「千姫・仙」と言う、四代将軍家綱の命により綱村と婚約した。当時共に十五歳であった。二人の婚儀は四年後の延宝五年(1677)四月六日に行われている。
吉村が正式に仙台藩五代藩主となったのが元禄十六年(1703)八月二十五日で、翌二十六日に陸奥守に任じられた。
綱村の正室「千姫」は高松の丘に登り仙台を一望しました。その時、眼下に広がる村村は、幼少に見た故郷小田原の地に似ていることから、国分荘小俵邑の地名は「小田原」と称されるようになったとも言われます。千姫の没後、万寿寺殿として故郷に似る小田原の眼下に見える高松の丘の万寿寺に葬られました。