5 仙岳院は戊辰戦争の拠点だった?
【答えの要約】
慶応4年(1868)7月から10月まで、仁孝天皇の猶子で、孝明天皇の義弟、明治天皇の義理の叔父に当たる輪王寺宮公現法親王(後の北白河宮能久親王)が 仙岳院に滞在しました。6月に奥羽越列藩同盟は、輪王寺宮を盟主として据えた。列藩同盟側は、輪王寺宮を「東武天皇」へ推戴し、新朝廷を作る構想があったという。しかし、列藩同盟や旧幕府軍を率いる榎本武揚らの足並みはそろわず、実現することはなく、仙台藩が降伏した後、輪王寺宮はこの地から京都へ戻った。
慶応4年(明治元年、1868年)1月に戊辰戦争が始まり鳥羽・伏見の戦いの後、輪王寺宮は前将軍徳川慶喜の依頼を受けて2月21日に出発、3月7日に東征大総督・有栖川宮熾仁親王を駿府城に訪ね、新政府に慶喜の助命と東征中止の嘆願を行う。しかし、助命については条件を示されたものの東征中止は一蹴されたため6日後の13日に寛永寺へ戻った。父や熾仁親王からは京都へ帰還を勧められるも拒絶した。彰義隊が寛永寺に立て篭もった後の5月4日には熾仁親王が江戸城に招いているが、この使いには病であると称して会わなかった。5月15日に上野戦争が発生したが、彰義隊の敗北により寛永寺を脱出、25日に羽田沖に停泊していた榎本武揚率いる幕府海軍の手引きで長鯨丸へ乗り込み東北に逃避、平潟に到着した。東北では輪王寺宮執当覚王院義観ら側近とともに会津、米沢を経て仙台藩に身を寄せ、7月12日に白石城へ入り奥羽越列藩同盟の盟主に擁立された。輪王寺宮自身も「会稽の恥辱を雪ぎ、速に仏敵朝敵退治せんと欲す」と述べるなど、新政府軍に対して強い反感を持っていた。奥羽越列藩同盟側は輪王寺宮に対し、軍事的要素も含む同盟の総裁への就任を要請した。しかし輪王寺宮は「君側の奸」を除くことには同意し、政治面での盟主にはなるが、出家の身であるために軍事面では指導できないとした。結局6月16日に盟主のみの就任に決着、7月12日には白石城に入り列藩会議に出席した。以後降伏まで白石城と天台宗仙岳院を行き来していた。榎本武揚や土方歳三ほか、仙台領の重鎮も頻繁に訪れた戊辰戦争の大きな拠点であった。